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人間について真面目に考えてみるブログです。

ベートーヴェン 交響曲第8番:ほとばしる恋の足音

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 ベートーベンといえば第九であるけど、これだけを一番のシンボルにするにはもったない名曲がいくつもあるのは言うまでもない。

 

 ところが、どうもこの第八だけはすこぶる評判がよろしくない。

 

 しかし第九の次に何が好きかと問われれば、私は躊躇なくこの第八を選ぶだろう。

迫りくる華やかなリズムは、どこか焦燥と緊張を感じさせる。完全にあなたと一緒か、あるいはまったくそうでないか、いずれかでしか私は生きられない」とまで言わしめる激しい恋の情熱に舞い上がるベートーベンが、熱い鼓動のメロディを紡いでいるのだ。

 胸をしめつける、その重苦しいはずの緊迫感の上を、神秘的な恋の美しき感情が、軽やかに跳んで戯れているように感じられる、極上の音楽だ。

 


ベートーヴェン - 交響曲 第8番 ヘ長調 Op.93  カラヤン ベルリンフィル

20代最後の夜

今週のお題「2020年上半期」

 

このテーマに関して、コロナ以外に何を書けばいいといのでしょう。

 

たとえば相変わらず独身で彼女がいないということでしょうか。

 

4月4日、おかまの日が誕生日ということもあり、「20代最後の夜は何もできなかった、それも割かし唐突に」、と話のネタにしているのですが、なんのことはありません。

 

やれコロナだやれ自粛だ、だのなんだの、しかしこんな騒ぎがなかったとしても、結局は何もしていなかったのでしょうから。

ロバート・F・ヤング『時をとめた少女』:時空を超えた婚活戦争

 

時をとめた少女 (ハヤカワ文庫SF)

時をとめた少女 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 六月のあの金曜日の朝、公園のベンチに腰かけたロジャー・トンプソンは、オーブンのがちょうさながら、自分の独身主義が危機にさらされているとは少しも考えてはいなかった。(131p)

 と、始まる表題作。

 

 表紙のイラストからしてディズニー風のファンタジックな内容が連想されるが、一人の男をめぐる二人の女の、欲望渦巻くサバイバルとなっている。

 しかもその渦中の男・ロジャーといのがまた、理想を体現するそれとは程遠い、いささか社会不適合の感ある就職浪人で、工科大学を卒業して六度目の就職活動中だった。

 

 ほとんど需要のないテーマについて研究中で、その深遠な内容について瞑想にふけるという、少年期であればそこそこ女に好かれそうではあるが、いつまでも続けていると忽ちに非モテに転落するのだった。

 

 しかしどういう訳か、そんな彼の前に一人の美女が現れ、あれよあれよとプロポーズするにまで至る。

 ロジャーはもう彼女にぞっこんで、これまたどういうわけか、あとに現れた女に、すっとんきょんなSF話を聞かされ、論争を挑めばことごとく論破され、彼女との結婚を思いとどまるよう説得されたあげく、「あなたを連れてかえるわ」(151p)と一緒に来てほしい旨を切に申されても、彼の気持ちは少しも揺るがないのだった。

 

 一見すると、ロジャーは非モテからハーレム状態に転じたかのようだが、彼を待ち受ける運命は、その時点ではどちらも望ましい結果とはいえまい。

 だが、最後の最後で彼は、無垢という幸福を手にするのだった。つまりは、知らぬが仏、ということだろう。

 それににしても、この古典SFにも登場する、《どんなに自分の感覚で理想とは思えなくても、数値が良しと言えば理想なのだ》という発想は、2020年になっていよいよ現実的な話になってきたように思うのは錯覚だろうか。

 

危うい自殺報道

 今をときめく人気俳優だけに、その死は誰にとっても大きなショックだし、同い年、一日違いの誕生日ということもあり、残念でならないのは私も同様だが、自殺は珍しいことじゃないし、今この瞬間にもこの世を去った人、去ろうとしている人、あるいは思いとどまった人が何万といるわけで、個人的な経験を踏まえて言うと、連日報道が続いたり、惜しむ声が鳴りやまないようだと、自死を思いとどまった人が一番危険に思う。せっかく希死念慮から解放されて、これからどうにか生きようと胸に決めた人からすれば、こんな報道や悲しみの声を垂れ流されては、出鼻をくじかれた思いがして、たまったものじゃない。あげく再びずるずると暗い情念に引きずり込まれてしまうのだ。

 もし彼の思いに想像をめぐらすことができなかったことを悔いるなら、まずはこういう人がいるかもしれないと想像してみたらどうだろうか。それともやっぱり自分たちの気持ちを優先させたいのだろうか。

 

 

ボードレール『ANY WHERE OUT OH THE WORLD』:魂の夢見る跳躍

人生は一つの病院である。そこに居る患者はみんな寝台を換へようと夢中になつてゐる。 或るものはどうせ苦しむにしても、 せめて煖爐の側でと思 つて ゐる。 また 或る ものは 窓際へ行けば きつと よくなる と 信じてゐる。

ボードレール シャルル・ピエール. ANY WHERE OUT OF THE WORLD (Kindle の位置No.3-5). 青空文庫. Kindle 版.

 

 魂の沈黙と叫びが、愛嬌たっぷりに語られている。この世の外ならどこでも構わないという魂は、死を望んでいるのでもなかった。死でさえもまたこの世の範疇にあるものに過ぎないのだった。生と死を越えた世界を、詩人の魂は、駄々っ子のように欲して求めている。

 

 

ANY WHERE OUT OF THE WORLD
 

 

情報の嵐と時代の記憶

 人間の自己認識が先鋭化したおかげで、未来の人々は、この時代に何が存在し、何が消えたのか、考古学的な努力なくして把握することができるだろう。

 それとも、残された情報があまりに多すぎて、却って把握は困難なものとなるのだろうか。はるか昔の栄光の記憶が砂の中に消えてしまったように、人の記憶は、日々吹き荒れる膨大な情報の砂塵に埋もれて消えてしまい、未来に受け継がれてゆくことなんて、とても不可能ではないだろうか。

 

 ときおり、そんな不安に襲われることがある。それが少しも非現実的な不安、妄想に起因する根拠のない不安と思えないから困ったものだ。

 

 たとえば科学はどうだろう?たとえば相対性理論が忘れ去られることあるとすれば、それこそ人類の滅亡であり、あまり考えたくない未来だ。

 科学の重大な発見の連鎖は、人類が存続する限り、ともに永続されるだろう。だけど、そうすると数百年後、数千年後の人類は、世界大戦と冷戦、コロナ禍の記憶を最後に、われわれ祖先との共有される記憶が科学知識と技術だけになって、その間にあるものといえば、近寄りがたい情報の墓場、鬱蒼と茂って、手つかずに放置されたままの、蜘蛛の巣にまみれた墓石の数々しかないのではないだろうか。

 

 もしそんなことになっているとしたら、脈々と息長く持続している科学は、果たして人間にとって意味のあることなのだろうか。そのとき科学に、人間を幸福にする力が残されているのだろうか。

木下優樹菜の奇妙な好感度

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 お店は徒歩10分ほどのご近所ですが、ウーバーイーツさんに配達してもらってチップを払うのがすっかり週末の楽しみになってしまいました(笑)

 にしても、タピオカのもちもちした触感と黒糖の香りがたまりませんね!(^^♪
 

 さて、本題ですが、現代の風潮といえばとにかく好感度が大事です。なぜ好感度が大事かと言えば、それが美しい道徳あるいは倫理だからでしょうか。なるほど確かに好感度は我々の感情を、性的快楽の一歩手前まで導いてくれる。好感度の発生源が道徳的な振舞いにあることは否定しようがないでしょう。しかしどうしてこの漠然とした感情の提供が芸能界に求められるようになったのでしょう。トレンディ俳優としてかつて人気を博した石田純一も今や需要を完全に失いつつあります。いや、失ったといっても過言じゃありません。

 

 まず第一に、人は表面的なことしかわからなくなってしまったこと。そして時間をかけずに、なるたけ良い効率、生産性を維持して前へ前へ、立ち止ることができないのが現代人であります。そのためには、とにかく物事の深みにはまらないことが大事になります。それは他人に対する評定、商品に対する評定にもあてはまるでしょう。どうしてこれだけは例外だと言えるのでしょうか。例外ではありえません。我々は他人を判断するに際しても、もはや時間をかけて彼ら彼女らの人格を判断することができません。手っ取り早い即座の判定が求められるのです。そのために好感度ほど、比較的よく的中するうえにわかりやすい経験則はないのです。

 

 そして第二に、なんといっても、自社の存在を手っ取り早く世に広めたい企業の側のエゴがありますが、それはまったく悪いことばかりというのでもないのでしょう。とくに、大企業の力を思い知る小さな企業としては、芸能人とはいかないまでも、SNS等のインフルエンサーの存在は今やなくてはならない存在で、大々的な広告は出せないが地道な営業活動だけではとても回らないというのが実情かもしれません。商品を売る人なら誰でも、その力にすがりたいと思うものです。そして大企業にしても、飛び込み訪問やチラシ配りから再スタートなんてプライドが許しません。しかし広告は絶えず続けなければならない。似て非なる広告と営業ですが、求められているのは、効率よく、かつ飛び込み営業のように血の通った広告なのでした。

 

 しかし根強いアンチがいながら、インスタフォロワー数が500万を超える木下優樹菜というカリスマが出来上がってしまったのだから、好感度の経験則が必ずしも万能ではなかったことが証明されてしまったし、情報カスケードのうまみを知ってしまった商品社会のエゴというだけではこの珍現象を説明できません。

 残念ながら、彼女自身に一定の好感度が確かに存在したと認めざるをえないのです。

 

 その好感度の正体ですが、彼女の奇妙な言動にヒントがありそうです。つまり彼女は、その美貌からしてイケメンと結ばれることは十分にありえたはずなのに、まるでフジモンのような非イケメンとしか結ばれることしかなかった、過酷な現実を背負う悲劇のヒロインであるかのようなのです。彼女と彼女を取り巻く世界では、彼女は弱者だったのです。99%が負け組と言われている時代、弱者ほど人の共感を誘う存在はありません。言ってしまえば、弱者は自己投影の対象にすぎないのです。

 もっと具体的に、誰の共感を勝ち取ったのでしょう。あけすけに言いますと、木下優樹菜、結婚と子ども、家庭を得るために、身の丈にあった選択をしたと意識的には考えているけど、自分をしょうもない男に安売りしてしまったという本音を抱えている女性たちの心を支える大きな存在だったのです。

 

 しかし彼女が実際に悲劇ではなかったというのでもない。フジモンの容姿にもかかわらず、彼の内心のどこかに惹かれたことをあえて否定して、すべて偽りだったという必要はないでしょう。要するに、それ自体が悲劇だったのです。本当は面食いなのに、醜い男の心に惹かれてしまった。これを悲劇と言わずに、なにを悲劇というのでしょうか。

 

 ともあれ、わたしが最も心配しているのは、彼女と交流を持った子ども達です。私のインスタにもよく、子持ちの友人が、木下優樹菜と母子が触れ合う交流会での楽しそうな一幕をストーリーズに投稿していたのですが、その子たちは今も彼女に会えることを楽しみにしていながら、彼女がいまどんな状況で、どうしてもう無理なのか、会えないのか、さっぱりわかっていないことでしょう。成長したころにはすっかり忘れている子もいるかもしれませんが、このころの記憶は根強く残るものです。この子たちが過去の状況を理解するそのとき、いったい何を思うのか、漠然とではありますが、不安なのでした。