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人間について真面目に考えてみるブログです。

情報の嵐と時代の記憶

 人間の自己認識が先鋭化したおかげで、未来の人々は、この時代に何が存在し、何が消えたのか、考古学的な努力なくして把握することができるだろう。

 それとも、残された情報があまりに多すぎて、却って把握は困難なものとなるのだろうか。はるか昔の栄光の記憶が砂の中に消えてしまったように、人の記憶は、日々吹き荒れる膨大な情報の砂塵に埋もれて消えてしまい、未来に受け継がれてゆくことなんて、とても不可能ではないだろうか。

 

 ときおり、そんな不安に襲われることがある。それが少しも非現実的な不安、妄想に起因する根拠のない不安と思えないから困ったものだ。

 

 たとえば科学はどうだろう?たとえば相対性理論が忘れ去られることあるとすれば、それこそ人類の滅亡であり、あまり考えたくない未来だ。

 科学の重大な発見の連鎖は、人類が存続する限り、ともに永続されるだろう。だけど、そうすると数百年後、数千年後の人類は、世界大戦と冷戦、コロナ禍の記憶を最後に、われわれ祖先との共有される記憶が科学知識と技術だけになって、その間にあるものといえば、近寄りがたい情報の墓場、鬱蒼と茂って、手つかずに放置されたままの、蜘蛛の巣にまみれた墓石の数々しかないのではないだろうか。

 

 もしそんなことになっているとしたら、脈々と息長く持続している科学は、果たして人間にとって意味のあることなのだろうか。そのとき科学に、人間を幸福にする力が残されているのだろうか。