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多川俊映『唯識とはなにか』:唯識哲学から考える安楽死(ついでに優生思想も)~暴走する理屈~

 

   

 唯識という言葉どおり、この仏教哲学によれば、まずはじめに、第八阿頼耶識がある。といって、無から有という風にそこから万物が生じるのでもなく、あるいは独我論というわけでもなく、ただそこには、はるか昔から幾度と繰り返されてきた前世の記憶が種子(しゅうじ)として堆積しており、種子から現行(げんぎょう)が生じる。現行は同時に、第七末那識、第六意識、前五意識の動きでもある。阿頼耶識の識体は、見るもの(見分)と、見られるもの(相分)とに転変するのだ。

 

 ところで、唯識哲学といえども、仏教である以上は、因果応報の思想に基づいているのであり、善から善が生じ、悪から悪が生じるという等流果(とうるか)の因果律はもちろん、縁起が大前提にあって、ゆえに、阿頼耶識もまた、流れる因果によって生じるのだった。

 この点、因果の流れを超越して、ただそれ自体によってのみ生じるとされる実体substance)なるものを真として想定する西洋哲学とは正反対に異なる。

 

 それでは、阿頼耶識善から生じる善なのか、あるいは悪から生じる悪なのか。当然ながら、どちらでもない。阿頼耶識は無記であり、言い換えれば、等流果とは異なる別の因果律が存在する。そしてその因果律とは、異熟果(いじゅくか)といい、善と悪から、まったく質の異なる無記というものが生じる。

 

 質が異なるというのは、悪あるいは善から生じるにもかかわらず、その結果は悪でもなければ善でもでもないからだ。

 

 上述のとおり、これは絶対不変の一なるものではないが、常に我 癡(無明)とともにある末那識がこれを実体的な不変ものと誤解するのだ。

 

なか、「 我 癡」 は、 無明 とか 愚癡 とも いわ れる よう に、 もの ごと の 道理 に 暗く、 迷う こと です。

多川 俊映. 唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.1044-1045). . Kindle 版.

 

 

 この無明こそが原始仏教のはじめからあらゆる苦悩の根本とされているのであって、唯識によれば、苦の原因は迷妄であるけど、迷妄の原因は末那識にあるといわけだ。そして迷妄それ自体のほうに働きかけるのではなく、それを認識してしまう末那識のほうに働きかけ、これを滅することで苦しみから解放されるという理解は、正確ではないかもしれないが、当たらずとも遠からずといってもいいだろう。

 

 それでは、この末那識をなくすということは自死とか、自殺とか、安楽死のことを意味しているのだろうか。

 

そんなはずがない。そんなはずがないのである。

 

 それこそ末那識の無明に基づく暴走といって過言じゃないだろう。自ら死を選ぶという決意には、自我というものが前提にされているのだから。

 

 たしかに、苦悩や苦痛を認識する機能を根本から抹消したのだから、末那識を滅したとも言えそうだ。

 

 しかし唯識仏教は、末那識をなくせ、とは言うけれど、阿頼耶識までをなくせとは一言も言っていないのだ。

 

 

ところで、 こうした 第 七 末那識 が 仏道 の どの 段階 で 無くなる のか ─ ─。 その こと を 述べ た のが、 第 七 頌 3・4「 阿羅漢 と 滅 定 と/ 出世 道 には 有る こと 無し」 です。

多川 俊映. 唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.1205-1207). . Kindle 版.

 

 

  要するに仏教は、一見して自死と同じような行為、生命を保持しながら死滅に至るという、ある種の矛盾を可能にさせる門戸を人に解放しているのである。

 

 さて、こうした見解を、科学万能主義の現代人からすれば、とんでもなくバカバカしく見えるのだろう。こんな宗教倫理では、人類は幸福にはなれないのであり、それは歴史の証明していることだ、と。だが歴史は、科学的合理思想でさえ人類を幸福にはできないと証明してしまっているのだった。

 

 翻って、安楽死の否定は、当人の苦しみを無視した、無理解な考えなのだろうか。確かに、本人が死にたいというのなら、誰にも止める義務もなければ権利もない。だから死を手助けすることは、一定の条件の下で秩序的に行われるのであれば許されべきなのだ、なんて理屈が、ただ理屈のみによって正当化されるなのら、人類が戦争と暴力の苦悩からは解放され得ないことは帰納的に明白であるから、平穏のためには核戦争で全滅したって構わないという理屈さえ、倫理なしでは正当化されてしまうのだ。

 

 優生思想にしても、たとえばある集団のなかにabの二つの集団があって、より劣ってる方のbが晴れて消えたとする。すると今度はa集団のなかでまた、aとa'に分かれて、aが消え、a'のなかでa''に分かれ……と延々繰り返されれば、これは現実の話であるからゼノンのパラドックスのようにはいかず、つまるところ優生思想の極北にあるものは全滅なのである。だったら、わざわざこんな迂遠なことなんかせずとも、人間には核兵器という、集団自殺にはもってこいの便利な道具があるのだから、とっとと核戦争でも起こして全滅すればいいのである。