滝浦静雄『時間』:どうして時間は不可逆とわかるのか。あるいは時間に関するファクターX
我々の肉体は日々老いてゆく一方で、決して若返ることはない。そのことだけでも十分に時間の不可逆性は証明されているように思える。
しかし滝浦は問題提起する。
「現実に不可逆な過程があるかどうかは、そのまま時間の流れが不可逆かどうかの問題にはならないではあるまいか、と。」(79p)
これは滝浦自身の関心に基づく問題提起というよりは、これまでの哲学、学問が、因果関係それ自体の分析によって時間の不可逆性を示そうとして循環論に陥っていたこに対する苦言とも言える問題提起だった。
そもそもにしてオリジナルな問題提起という訳でもない。
グリュンバウムの立場からすれば、因果関係から分析的に時間関係を導出することは不可能なのであって、それがいつでも可能でるように見えるのは、われわれがすでに時間の存在を知っているからなのである。(69-70p)
どうやら可逆性の不可能性を考えることに意味はなく、滝浦に言わせれば、その限りにおいて時間の不可逆性を語ることができる(82p)、のだと。(ちょっとよくわからない笑)
メールベルク自身は、現実の出来事の前後関係は時間の流れの不可逆性によって決まるのであって、それらが因果関係にあるからではない、…(75p)
たとえば、中国で新型肺炎が発生し世界中に蔓延したとういう場合、もし時間が不可逆でないなら、世界中で新型肺炎が蔓延し、中国でも発生した、という因果の流れでもいいはずであるが、そんな無秩序が許されていいはずはないだろう。われわれの目には、前者であることは明らかなのだ。
ということは、時間の不可逆性というある種のルールによって出来事はその前後関係がまずは確定されなければならず、そうして初めて因果関係が分析されうるのだ。
それゆえ、《出来事には前後不可逆の因果関係があるから時間は不可逆なのだ》と言ってみても、それはほとんど空虚で、何かを言っているようで、実は何も言っていないのである。
因果関係があるから時間には方向があるのではなく、因果関係が時間の不可逆を前提にしている。
因果関係それ自体の分析によって時間の不可逆がわかるという説は、「時間は不可逆」という結論がすでに念頭に置かれ、先取りされているから、なんの証明にもなっていないのだった。
それからマクタガードの時間に関する3つの系列を援用される。すなわち、A系列=過去・現在・未来と続く系列、B系列=前後関係で並ぶ系列、C系列=一定の順序だけを含む系列(86p)である。
このうち、C系列は例えば整数や自然数の順序であるが、変化を含むものでないから、時間的な系列ではないとされる。B系列もまた、XからYへという場合、それを変化と呼ぶことはできても、この系列のなかでは依然としてXはXなのであり、YはYであるから、時間の説明には十分でない。(88p)
それでは、われわれはどんなふうにして変化を語りうるのだろうか。(89p)
マクタガードは言う。「その出来事は、はじめは未来の出来事だった…ついに、それは現在のものになった。それから、それは過去のものになったし、……」(89p)
マクタガードによれば、B系列は、変化と方向を与えるA系列が、恒常性を与えるC系列と結合したとき」初めてうまれるものなのである。(91p)
要するに時間を構成する系列のうち、もっとも本質的なのはA系列なのだが、すると時間を実在的なものとして考えることができなくなってしまうらしい。(94p)
A系列の内には矛盾が含まれていて、実在に適用することができないからだ。(同)
というのは、たとえば、愛の経験について、期待される愛、経験される愛、記憶される愛という風に、これらどの時点においても愛は異なった性質を持っているとは考えられない。どの時点でもその性質によって愛が愛たらしめられている。
それでも我々は、もうすぐ有りそう、有る、もう無い、という風に、確かな変化を経験するのだった。
結局、われわれの時間経験は一種の錯覚だということになるが、しかしマクタガードは、だからと言って、われわれの経験のすべてを錯覚と見るわけではない。何かしら実在の系列が存在することを認め、…(中略)…その経験の「見え」だけを錯覚とみなそうとするのである。(99p)
実在の系列としてのC系列が或るなにものかとの関係で変化しうるものとして現出し、過去や未来、現在といった語で語られたとき、そのC系列が時間系列として錯覚されることになるのである。(100p)
この『或るなにものか』という第三項、流行りの言葉でいえば、ファクターXが問題になるのだが、こうして時間論は自我論へと移ろいでゆくのだった……