serand park

人間について真面目に考えてみるブログです。

滝浦静雄『時間』:どうして時間は不可逆とわかるのか。あるいは時間に関するファクターX

 

時間―その哲学的考察 (岩波新書 青版)

時間―その哲学的考察 (岩波新書 青版)

  • 作者:滝浦 静雄
  • 発売日: 1976/03/22
  • メディア: 新書
 

 

 

 我々の肉体は日々老いてゆく一方で、決して若返ることはない。そのことだけでも十分に時間の不可逆性は証明されているように思える。

 しかし滝浦は問題提起する。

「現実に不可逆な過程があるかどうかは、そのまま時間の流れが不可逆かどうかの問題にはならないではあるまいか、と。」(79p)


 これは滝浦自身の関心に基づく問題提起というよりは、これまでの哲学、学問が、因果関係それ自体の分析によって時間の不可逆性を示そうとして循環論に陥っていたこに対する苦言とも言える問題提起だった。

 

 そもそもにしてオリジナルな問題提起という訳でもない。

 

グリュンバウムの立場からすれば、因果関係から分析的に時間関係を導出することは不可能なのであって、それがいつでも可能でるように見えるのは、われわれがすでに時間の存在を知っているからなのである。(69-70p)


 どうやら可逆性の不可能性を考えることに意味はなく、滝浦に言わせれば、その限りにおいて時間の不可逆性を語ることができる(82p)、のだと。(ちょっとよくわからない笑)

 

メールベルク自身は、現実の出来事の前後関係は時間の流れの不可逆性によって決まるのであって、それらが因果関係にあるからではない、…(75p) 

 たとえば、中国で新型肺炎が発生し世界中に蔓延したとういう場合、もし時間が不可逆でないなら、世界中で新型肺炎が蔓延し、中国でも発生した、という因果の流れでもいいはずであるが、そんな無秩序が許されていいはずはないだろう。われわれの目には、前者であることは明らかなのだ。

 

 ということは、時間の不可逆性というある種のルールによって出来事はその前後関係がまずは確定されなければならず、そうして初めて因果関係が分析されうるのだ。

 それゆえ、《出来事には前後不可逆の因果関係があるから時間は不可逆なのだ》と言ってみても、それはほとんど空虚で、何かを言っているようで、実は何も言っていないのである。

 因果関係があるから時間には方向があるのではなく、因果関係が時間の不可逆を前提にしている。
 因果関係それ自体の分析によって時間の不可逆がわかるという説は、「時間は不可逆」という結論がすでに念頭に置かれ、先取りされているから、なんの証明にもなっていないのだった。



 それからマクタガードの時間に関する3つの系列を援用される。すなわち、A系列=過去・現在・未来と続く系列、B系列=前後関係で並ぶ系列、C系列=一定の順序だけを含む系列(86p)である。

 

 このうち、C系列は例えば整数や自然数の順序であるが、変化を含むものでないから、時間的な系列ではないとされる。B系列もまた、XからYへという場合、それを変化と呼ぶことはできても、この系列のなかでは依然としてXはXなのであり、YはYであるから、時間の説明には十分でない。(88p)

 

それでは、われわれはどんなふうにして変化を語りうるのだろうか。(89p)

 

  マクタガードは言う。「その出来事は、はじめは未来の出来事だった…ついに、それは現在のものになった。それから、それは過去のものになったし、……」(89p)

 

マクタガードによれば、B系列は、変化と方向を与えるA系列が、恒常性を与えるC系列と結合したとき」初めてうまれるものなのである。(91p)

 

  要するに時間を構成する系列のうち、もっとも本質的なのはA系列なのだが、すると時間を実在的なものとして考えることができなくなってしまうらしい。(94p)

 A系列の内には矛盾が含まれていて、実在に適用することができないからだ。(同)

 

 というのは、たとえば、愛の経験について、期待される愛、経験される愛、記憶される愛という風に、これらどの時点においても愛は異なった性質を持っているとは考えられない。どの時点でもその性質によって愛が愛たらしめられている。

 それでも我々は、もうすぐ有りそう、有る、もう無い、という風に、確かな変化を経験するのだった。

 

結局、われわれの時間経験は一種の錯覚だということになるが、しかしマクタガードは、だからと言って、われわれの経験のすべてを錯覚と見るわけではない。何かしら実在の系列が存在することを認め、…(中略)…その経験の「見え」だけを錯覚とみなそうとするのである。(99p)

 

実在の系列としてのC系列が或るなにものかとの関係で変化しうるものとして現出し、過去や未来、現在といった語で語られたとき、そのC系列が時間系列として錯覚されることになるのである。(100p)

 

 この或るなにものかという第三項、流行りの言葉でいえば、ファクターXが問題になるのだが、こうして時間論は自我論へと移ろいでゆくのだった……

グレイス・ペイリー『その日の後刻に』:死せる言語で夢をみるもの

 

その日の後刻に (文春文庫)

その日の後刻に (文春文庫)

 

 

 グレイス・ペイリーの第3作品集。ずらりとタイトルが並ぶ目次のなかで『死せる言語で夢を見るもの』は一際目を引く。何か詩的に深みのあるマジメな内容なのではないか?とついワクワクしてしまうのは、決して私だけではないだろう。

 

 だが、いい意味で期待は裏切られる。

 

 どんな風に裏切られるのかって、もうとにかくこのお話、痛ましいほどに関係の悪化している家族、泥沼にはまりこんでいる家族の人間臭いドラマなのだ。それでいて笑いどころが満載で、コメディでもあるよう。

 

 多少の読みづらさは否めないし、理解できないとこもままあるけど、大枠を理解するのに障害にはならない。ゆっくり読んでいけば、その面白おかしさに我慢できずジワジワときてしまうこと間違いないしだ。ここ最近読んだ小説のなかでは一番笑ったかもしれない。

 

 さて、2人の子を持つシングルママ主人公フェイスと衝突する彼女の詩人パパ、ダーヴィンじいちゃんは古き良き?白人おやじのステレオタイプそのもので、孫2人がこの老詩人と行動をともにすることを提案された際、母とすぐに会えるかと孫に訊かれ、爺やは答える……

 

もしママに会う必要ができたら、そう言えばいいのさ、ワン・ツー・スリー、ママはすぐに君の目の前にいる。いいね?(37p)

 

 序盤ではままバランスの保たれている娘との関係も徐々に崩れてゆくと、対する反応がいちいち愛憎を掻き立てる、憎めないおやじなのだった。

 

 フェイスの恋人フィリッピもなかなかいい味を出していて、終盤、フェイス親子が大もめしているところへやってきた彼と老詩人のそれぞれの反応は、極上の名演技といっても過言ではない。

 

フィリップは背を丸めてその小さな部屋を覗き込んだ。彼の顔は内気そうに決意を秘めていた……(59p)

 

 彼らに幸福が訪れることを願うばかりである……

ショートショート(掌編小説):暇つぶしに是非ご覧ください♪

note.com

 4連休、本当はもっと怒涛の勢いで創作したかったのですが、というかいつもそう思ってて、頭のなかではそんな自分をイメージしているのですが、どうしても合間合間にボーっとしてしまって、もっと色々できたんじゃないかって自己嫌悪して、心のなかで溜息ついている私でした。

コロナ禍とさえ隔絶された孤独

今週のお題「2020年上半期」

 

 テレビをつければwithコロナだとかコロナ以後だとか騒いでいて、ほうほうと思う。今日のクレヨンしんちゃん(昨日?)なんかもテレワークが題材になっていて、ここ最近では一番面白かった。

 

 ただ、正直に言えば、どこか冷めている自分がいる。

 

 というのは、以前と以後とで私の生活は、根本のところではほとんど何も変わっていないのだった。図らずも私は、たとえば不況の煽りを受けない人たちのように、ウイルスに影響されない勝ち組になった訳だが、名ばかりの雇われ店長、ないし管理職のようで、相変わらず経済的には苦しいし、明日の未来は不安であるし、人との繋がりも希薄で、私を悩ますこれらの苦悩とコロナとのあいだに因果関係は全くといっていいほどない。

 

 未来の教科書にはきっと、人々は非日常のなかで日常を迫られたとか、人々は新しい生活様式を迫られたとか、人々はウイルスに負けない社会づくりを迫られたとか、そんな風なことが書かれるのだろうけど、私は絶対にその人々のうちに含まれてはいないし、要するに私は決して勝ち組などではなくて、単に歴史から零れ落ちたに過ぎないのだった。

 

 強いてこの歴史にしがみつこうとするなら、私の弱い意思がずっと先延ばしにしていたジムでのトレーニングが、今では私に原因があって通えないのではなく、コロナのせいで通えないのだ、という確かな障害がもたらされたことだろうか。

 

 もしコロナがなければ、今ごろ私は絶対にムキムキマッチョになっていたはずである。

 

今週のお題「2020年上半期」

多川俊映『唯識とはなにか』:唯識哲学から考える安楽死(ついでに優生思想も)~暴走する理屈~

 

   

 唯識という言葉どおり、この仏教哲学によれば、まずはじめに、第八阿頼耶識がある。といって、無から有という風にそこから万物が生じるのでもなく、あるいは独我論というわけでもなく、ただそこには、はるか昔から幾度と繰り返されてきた前世の記憶が種子(しゅうじ)として堆積しており、種子から現行(げんぎょう)が生じる。現行は同時に、第七末那識、第六意識、前五意識の動きでもある。阿頼耶識の識体は、見るもの(見分)と、見られるもの(相分)とに転変するのだ。

 

 ところで、唯識哲学といえども、仏教である以上は、因果応報の思想に基づいているのであり、善から善が生じ、悪から悪が生じるという等流果(とうるか)の因果律はもちろん、縁起が大前提にあって、ゆえに、阿頼耶識もまた、流れる因果によって生じるのだった。

 この点、因果の流れを超越して、ただそれ自体によってのみ生じるとされる実体substance)なるものを真として想定する西洋哲学とは正反対に異なる。

 

 それでは、阿頼耶識善から生じる善なのか、あるいは悪から生じる悪なのか。当然ながら、どちらでもない。阿頼耶識は無記であり、言い換えれば、等流果とは異なる別の因果律が存在する。そしてその因果律とは、異熟果(いじゅくか)といい、善と悪から、まったく質の異なる無記というものが生じる。

 

 質が異なるというのは、悪あるいは善から生じるにもかかわらず、その結果は悪でもなければ善でもでもないからだ。

 

 上述のとおり、これは絶対不変の一なるものではないが、常に我 癡(無明)とともにある末那識がこれを実体的な不変ものと誤解するのだ。

 

なか、「 我 癡」 は、 無明 とか 愚癡 とも いわ れる よう に、 もの ごと の 道理 に 暗く、 迷う こと です。

多川 俊映. 唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.1044-1045). . Kindle 版.

 

 

 この無明こそが原始仏教のはじめからあらゆる苦悩の根本とされているのであって、唯識によれば、苦の原因は迷妄であるけど、迷妄の原因は末那識にあるといわけだ。そして迷妄それ自体のほうに働きかけるのではなく、それを認識してしまう末那識のほうに働きかけ、これを滅することで苦しみから解放されるという理解は、正確ではないかもしれないが、当たらずとも遠からずといってもいいだろう。

 

 それでは、この末那識をなくすということは自死とか、自殺とか、安楽死のことを意味しているのだろうか。

 

そんなはずがない。そんなはずがないのである。

 

 それこそ末那識の無明に基づく暴走といって過言じゃないだろう。自ら死を選ぶという決意には、自我というものが前提にされているのだから。

 

 たしかに、苦悩や苦痛を認識する機能を根本から抹消したのだから、末那識を滅したとも言えそうだ。

 

 しかし唯識仏教は、末那識をなくせ、とは言うけれど、阿頼耶識までをなくせとは一言も言っていないのだ。

 

 

ところで、 こうした 第 七 末那識 が 仏道 の どの 段階 で 無くなる のか ─ ─。 その こと を 述べ た のが、 第 七 頌 3・4「 阿羅漢 と 滅 定 と/ 出世 道 には 有る こと 無し」 です。

多川 俊映. 唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.1205-1207). . Kindle 版.

 

 

  要するに仏教は、一見して自死と同じような行為、生命を保持しながら死滅に至るという、ある種の矛盾を可能にさせる門戸を人に解放しているのである。

 

 さて、こうした見解を、科学万能主義の現代人からすれば、とんでもなくバカバカしく見えるのだろう。こんな宗教倫理では、人類は幸福にはなれないのであり、それは歴史の証明していることだ、と。だが歴史は、科学的合理思想でさえ人類を幸福にはできないと証明してしまっているのだった。

 

 翻って、安楽死の否定は、当人の苦しみを無視した、無理解な考えなのだろうか。確かに、本人が死にたいというのなら、誰にも止める義務もなければ権利もない。だから死を手助けすることは、一定の条件の下で秩序的に行われるのであれば許されべきなのだ、なんて理屈が、ただ理屈のみによって正当化されるなのら、人類が戦争と暴力の苦悩からは解放され得ないことは帰納的に明白であるから、平穏のためには核戦争で全滅したって構わないという理屈さえ、倫理なしでは正当化されてしまうのだ。

 

 優生思想にしても、たとえばある集団のなかにabの二つの集団があって、より劣ってる方のbが晴れて消えたとする。すると今度はa集団のなかでまた、aとa'に分かれて、aが消え、a'のなかでa''に分かれ……と延々繰り返されれば、これは現実の話であるからゼノンのパラドックスのようにはいかず、つまるところ優生思想の極北にあるものは全滅なのである。だったら、わざわざこんな迂遠なことなんかせずとも、人間には核兵器という、集団自殺にはもってこいの便利な道具があるのだから、とっとと核戦争でも起こして全滅すればいいのである。

ミシェル・ウエルベック『服従』:インテリの本質 (前編)

 

 

服従 (河出文庫)

服従 (河出文庫)

 

 

 《現実》という言葉で呼ばれているものほど、確実に存在しているくせに、その片鱗をさえ捉えがたいものはない。

 しかしそもそも、我々は現実というものを可能的に想像してみることしかできないのではないだろうか。いまこうしてブログを書き込んでいるという明らかすぎる現実もまた、つぶさに考えれば、たとえばソファに座っているとか、時計の秒針の音が聞こえるとか、昼食の香りがするとか、多様に働いている感覚の一部でしかなくて、そのなかから一つだけを殊更に取り上げ、残りの一切は捨象しているとするなら、ブログを書き込んでいるという明白に認識されている現実は、実際のそれが取っている形とは大きく異なっているはずだろう。同時にすべては把握できないのだ。

 目の前に展開される素朴な事象さえそうなのであるから、《社会》というただでさえ漠然としている観念の実際の有ようは認識が不可能とは言わないまでも、その可能性は水風船のように繊細で割れやすいに違いない。

 

 主人公、パリ第三大学教員ぼくは、こうした捉えがたい現実に翻弄される無様なインテリの一人だ。無神論者でありながら世俗的な欲望には冷めていて、その実性欲には素直で、小難しい文学論は仰々しく披歴するが、こと政治については疎い。疎いうえに無関心ときているのだから救いようがない。彼にとっては、大統領選という一大イベントはワールドカップの決勝戦と同じくらい、みんなと雰囲気を分かち合うだけの娯楽に過ぎなかった。

 文学青年らしい虚無を彼は抱えている。学業を終え、社会に出た瞬間から人生の最良な時期が終わりを告げたと考えているのだ。大学教授という肩書を手に入れ、四十四にしてなお、彼はかつてのようには存在の意義を感じられずにいる。

 こうした無気力が、彼をマッチョ傾向へ誘う。元カノにその傾向を問われて彼は答える。

 

「分からない、そうかもしれない。ぼくは多分いいかげんなマッチョなんだ。実際のところ、女性が投票できるとか、男性と同じ学問をし、同じ職業に就くことがそれほどいい考えだと心から思ったことはない」(41p)

 

しかし彼女の思いは切実だ。

 

「家父長制についてのあなたの考えが正しかったとするじゃない。それだけが実現的なプランだったとする。でも、わたしは高等教育も受けて、自分を独立した一個人と考えるのに慣れているし、男性同様考えたり決定したりする能力があると思ってる。だとすると、わたしはどうなるの?捨てられても構わない女だっていうわけ?」(44p)

 

彼はやはり冷めていた。

 

正しい答えはおそらく「そうだね」だったのだろう。でもぼくは黙っていた、・・・(44p)

 

 彼のような虚無に蝕まれた人間は、女性たちの恐れる抑圧に対しても、どうしたって熱い正義の情を抱けないものだ。

 それでいて、存在意義を感じられない彼をして生に執着させるものは、肉体的な快楽のみだった。とりわけ上述の元カノ、ミリアムがもたらす官能は際立っていて、

 

一回ごとのフェラチオが、一人の男の人生を正当化するに十分だった。(39p)

 

とまで言うのだが、もう述べたように、彼女の抱く不安に彼は冷徹だ。

 

男にとって愛とは与えられた快楽に対する感謝に他ならず、ミリアムほどの快楽を与えてくれた娘はいなかった。(38p)

 

もはや彼の考えているところの女への愛たる感謝とはなんなのか、よくわからなくなってくる。

 

 ともあれ、イスラーム政権誕生がいよいよ現実味を帯びてくれば、彼も無関心ではいられない。

 

  何が起こっているのか、何が起こるのか、情報集めに奔走するが、従来のメディアはなんの役にも立たない屍でしかなかった。結局彼が頼りにしたのは、右翼運動の中枢を担っているとみた新任の同僚だった。二十五歳の、一回り以上も年下の同僚に近寄り、恥ずかしげもなくこう尋ねる。

 

「政治状況は極めて不安定に思えるね……。正直なところ、君がぼくの立場だったら、何をする?」(92p)

 

そして彼は、右翼青年の新しい同僚から得た助言に、なんの疑念も挟まず従うことにして、翌日にはもう実行しているのだった……。

 

微かに人を馬鹿にするような笑みが彼の口元には浮かんでいて、しかし奇妙なことにぼくは彼に親しみさえ抱き始めていた。(94p)