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人間について真面目に考えてみるブログです。

木下優樹菜の奇妙な好感度

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 お店は徒歩10分ほどのご近所ですが、ウーバーイーツさんに配達してもらってチップを払うのがすっかり週末の楽しみになってしまいました(笑)

 にしても、タピオカのもちもちした触感と黒糖の香りがたまりませんね!(^^♪
 

 さて、本題ですが、現代の風潮といえばとにかく好感度が大事です。なぜ好感度が大事かと言えば、それが美しい道徳あるいは倫理だからでしょうか。なるほど確かに好感度は我々の感情を、性的快楽の一歩手前まで導いてくれる。好感度の発生源が道徳的な振舞いにあることは否定しようがないでしょう。しかしどうしてこの漠然とした感情の提供が芸能界に求められるようになったのでしょう。トレンディ俳優としてかつて人気を博した石田純一も今や需要を完全に失いつつあります。いや、失ったといっても過言じゃありません。

 

 まず第一に、人は表面的なことしかわからなくなってしまったこと。そして時間をかけずに、なるたけ良い効率、生産性を維持して前へ前へ、立ち止ることができないのが現代人であります。そのためには、とにかく物事の深みにはまらないことが大事になります。それは他人に対する評定、商品に対する評定にもあてはまるでしょう。どうしてこれだけは例外だと言えるのでしょうか。例外ではありえません。我々は他人を判断するに際しても、もはや時間をかけて彼ら彼女らの人格を判断することができません。手っ取り早い即座の判定が求められるのです。そのために好感度ほど、比較的よく的中するうえにわかりやすい経験則はないのです。

 

 そして第二に、なんといっても、自社の存在を手っ取り早く世に広めたい企業の側のエゴがありますが、それはまったく悪いことばかりというのでもないのでしょう。とくに、大企業の力を思い知る小さな企業としては、芸能人とはいかないまでも、SNS等のインフルエンサーの存在は今やなくてはならない存在で、大々的な広告は出せないが地道な営業活動だけではとても回らないというのが実情かもしれません。商品を売る人なら誰でも、その力にすがりたいと思うものです。そして大企業にしても、飛び込み訪問やチラシ配りから再スタートなんてプライドが許しません。しかし広告は絶えず続けなければならない。似て非なる広告と営業ですが、求められているのは、効率よく、かつ飛び込み営業のように血の通った広告なのでした。

 

 しかし根強いアンチがいながら、インスタフォロワー数が500万を超える木下優樹菜というカリスマが出来上がってしまったのだから、好感度の経験則が必ずしも万能ではなかったことが証明されてしまったし、情報カスケードのうまみを知ってしまった商品社会のエゴというだけではこの珍現象を説明できません。

 残念ながら、彼女自身に一定の好感度が確かに存在したと認めざるをえないのです。

 

 その好感度の正体ですが、彼女の奇妙な言動にヒントがありそうです。つまり彼女は、その美貌からしてイケメンと結ばれることは十分にありえたはずなのに、まるでフジモンのような非イケメンとしか結ばれることしかなかった、過酷な現実を背負う悲劇のヒロインであるかのようなのです。彼女と彼女を取り巻く世界では、彼女は弱者だったのです。99%が負け組と言われている時代、弱者ほど人の共感を誘う存在はありません。言ってしまえば、弱者は自己投影の対象にすぎないのです。

 もっと具体的に、誰の共感を勝ち取ったのでしょう。あけすけに言いますと、木下優樹菜、結婚と子ども、家庭を得るために、身の丈にあった選択をしたと意識的には考えているけど、自分をしょうもない男に安売りしてしまったという本音を抱えている女性たちの心を支える大きな存在だったのです。

 

 しかし彼女が実際に悲劇ではなかったというのでもない。フジモンの容姿にもかかわらず、彼の内心のどこかに惹かれたことをあえて否定して、すべて偽りだったという必要はないでしょう。要するに、それ自体が悲劇だったのです。本当は面食いなのに、醜い男の心に惹かれてしまった。これを悲劇と言わずに、なにを悲劇というのでしょうか。

 

 ともあれ、わたしが最も心配しているのは、彼女と交流を持った子ども達です。私のインスタにもよく、子持ちの友人が、木下優樹菜と母子が触れ合う交流会での楽しそうな一幕をストーリーズに投稿していたのですが、その子たちは今も彼女に会えることを楽しみにしていながら、彼女がいまどんな状況で、どうしてもう無理なのか、会えないのか、さっぱりわかっていないことでしょう。成長したころにはすっかり忘れている子もいるかもしれませんが、このころの記憶は根強く残るものです。この子たちが過去の状況を理解するそのとき、いったい何を思うのか、漠然とではありますが、不安なのでした。