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人間について真面目に考えてみるブログです。

【日経BP】『絶望を希望に変える経済学』:第2章 100年後の高校生たち。移民について

 

 

 

 

なぜ移民をめぐってパニックが起きるのか。二〇一七年に国境を越えた移民が世界人口 に占める比率は三%。一 九六〇年や九〇 年とほとんど変わらない。

 

 昨今、とりわけ保守勢が移民を重大な問題として扱っている。統計上は、今も昔も移民の数はそう変わらないし、世界が富裕層と貧困層に二極するとして、貧困国から富裕国に流れる移民の数が急激に増える根拠も、賃金水準や労働者需要低下の根拠も残念ながら乏しく、喫緊の問題とも言えないし、伝統文化消滅に対する懸念もまた、移民の影響力に対する過大評価なのだと

 それでも移民問題が現代の重大の問題だと俗に考えられているのは違いないだろうが、経済学的な観点からすると、重大さの方向性が異なるようで、移住するメリットが含むインセンティブに比して移民の数は少ないらしく、そちらの方が大きな問題であるらしい。

 テロリストが紛れ込む可能性はどうなんだろうと思って読み進めたが、特に言及はされていない。

 ただし、

 

では、 受入国に何のコネクションも持たない移民はどうなるのか。この場合、非常に 不利になることははっきりしている。このとき、推薦状を携えている人が俄然有利になり、それ以外の人のチャンスを奪うということが起こりうる。雇用主は推薦状を持っている人を優先的に雇い、持っていない人に門前払いを喰わす。

 

と言及されているので、要するに移民というのは、基本的には、その国にすでに住み着いているその民族の知人を通じたコネクションや何かしらのネットワークを頼りに移住してくるのが一般的だから、経済学者に言わせれば、危険人物の流入は移民の問題に属するものじゃないのだろう。

 

 そうすると、やはり不法移民について問題になるが、どうせこの点に関しても過大評価と片付けられるのが目に見えているから、まあいい(笑)

 

 結局のところ、移民に関する争点は左翼と右翼とのあいだで永遠に平行線を辿ることになるだろうから、決着をつけようなんて思えば途端にやる気をなくす私ですが、100年後の高校生たちには同情せざるをえない。もしかすると、いまのうちに謝っておいた方がいいのかもしれない。

 

 つまり私が問題に思うのは、史記述の問題だ。

 

2010年代の移民問題は、100年後の教科書にどう記述されるのだろう?あるいはどう記述すべきなのだろう?

 

 《移民が増大し、問題となった》と記すべきなのか、《移民の数は例外的に増加した訳ではないが、移民の対する憎悪が強まった》と記載すべきなのか、それとも、もっと公平に、どっちも記載するべきか。

 

 両方記載するとしたら、むこう100年の間に起こる事象に関して、異なるイデオロギー間のそれぞれの認識を記載すべきことになりかねないし、そうなれば教科書の内容は膨大になってしまい、100年後の児童と生徒が哀れだ。

 

 しかもまた、私も昔よくやった一問一答型の参考書なんか、もはや成り立たないのではないか(笑)

 

 だけど一番最悪なのは、2010年代の歴史もまた、コロナ禍に吸収されてしまうことかもしれない(笑)

 

 もし今、夢は何かと問われたら、「100年後の教科書を読んでみたい」と即答するだろう、私は!

 

 

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【日経BP】『絶望を希望に変える経済学』第4章:差別はなくなるのか、フォーク定理について

 

 

 伝統的な差別は次第に薄れてはいるものの、 上位カーストは下位カーストの経済状況の 改善を脅威と感じており、殺傷を含む暴力で対抗することがめずらしくない。たとえば二 〇一八年三月には、グジャラート州のダリットの若い農夫が馬を所有したという理由で撲殺された。馬を所有したり乗り回したりするのは上位カーストにだけ許される行為と考えられていたためである。

 

 インドのこうした現実を我々はひどく野蛮に思う。馬を所有しただけで撲殺されるなんて、とんでもないことではないか。我々から見て加害者たる彼らカースト上位は、まさに理解不能の異邦人だ。日本を含めた先進国に住む人たちにとって、彼らの感覚は異常である。
 ところが、現代経済学というのは昔に流行ったところのいわゆる構造主義的なのか、表面的には野蛮に違いないこうした行為の根底にある感覚を、我々もまた、いまなお共有しているらしい。


 我々と彼らが共有しているもの、それは要するに、相互補助システムの崩壊であり、この恐怖は、掟破りに対する激烈、過剰なまでの罰となって現れる。


 カースト上位連中の繰り返す、どんなに異常で野蛮に見える確信犯的行為も、その根底にある感覚は、たとえば芸能人の不倫に対する憎悪、リベラリストの保守派に対する憎悪(その逆もしかり)、これらへの村八分的厳しい態度の根底にある感覚と共通しているのだ。
 またあるいは、単に欲望を満たすため、確信犯的でなくとも、たとえば14歳の少女を犯した65歳の老人に対する憎悪は、それこそこの男を線路に縛り付けて、汽車に轢き殺してもらわなければ気が済まないのが我々現代人というものだろう。こうした感覚は、実を言えば、自らが蔑む未開的行為の根底にあるものと似通っている、あるいは同じと言い切ってしまっても構わないのかもしれない。

 

 そして人種差別もまた、好むと好まざるとを問わず、共同体の互助的なシステムとして維持されるという。

 

メンバーが共同体の掟に従う限りは、共同体は必要なときにメンバーにさまざまな形で 支援を提供する。だがときに共同体は暴力的な面を剝き出しにし、共同体に反抗する勇敢なメンバーに天誅を加える。

 

 ある共同体において、《差別することがみんなの利益になる》、と、それが確固たる事実として認識されるようになれば、その共同体内で人生を送ろうと決した人は誰でも、本音や趣向がどうであれ、あるいはどれだけ口々に反レイシズムを謡っても、人種というレトリック—それがどれだけレトリックにすぎないとわかっていても—に基づいて差別しなければ、自分自身が存亡の危機に陥るのである。

 

 差別や偏見と闘う最も効果的な方法は、おそらく差別そのものに直接取り組むことでは ない。ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせることだ。

 

 

 著者たちが本書で掲げる案がどれだけ有効なものなのか、まだ私には判断する能力がないけど、時間をかけて注視する価値はあるのかもしれない。

 

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川上未映子『夏物語』:少女の苦悩

 

夏物語 (文春e-book)

夏物語 (文春e-book)

 

 

 

 極貧生活の子供時代だった姉妹、夏子と巻子。妹の夏子は上京し、作家を目指しながら、やはり貧しい暮らしを続けていた。そんななか、9こ上の巻子と12歳になるその娘緑子が大阪からやってくるという。緑子は反抗期らしく母巻子に、うまく感情を伝えられず、あるいは取るべき態度をわからずにいて、絶交状態に陥っている。必要な時は筆談でやり取りされる。緑子は日記もよく綴っていて、第1部では、地の文、というより夏子の語りの合い間あいまにその内容が挟み込まれ、少女の赤裸々な本音や体験が公開される。

 

 その一つに関して、ちょっと考えてみたい。

 

 人間にはやくも絶望している緑子、いや、むしろ青年期や思春期にこそ抱きがちな絶望と虚無を、冒頭の夏子と同じ30歳の私がどう乗り切ったのか、正直あまり記憶にはないけど、緑子と同じ疑問を、ことあるごとに抱いていたのは確かだ。ただ言わせてもらうと、緑子よりはもう少し思春期の私は視野が広かったはずだ。

 要するに彼女は、苦悩と不幸の部分しか見えていない。とにかく深刻なネガティブに思考が偏ってしまっていて、正直読むのは苦痛だった。

 

 そしてどうも、心優しい(皮肉でなしに)彼女には、人類史のほとんどの期間において人は貧困と絶望にあえいでいながら、脈々と命をつないできたという現実が受け入れられないらしい。

『・・・、みんなが生まれてこんかったら、なにも問題はないように思える。誰も生まれてこなかったら、うれしいも、かなしいも、何もかもがもとからないのだもの。なかったんやもの。卵子精子があるのはその人のせいじゃないけれど、でももう、人間は、卵子精子、みんながもうそれを、あわせることをやめたらええと思う。』134p

 

  こうした緑子の思いは、どんな年代であれ、どんな境遇であれ、現代に生きる人なら身近なことと思う。科学と理性の力がかつては、貧困と飢餓、戦争、その他あらゆる苦悩を解決するもののように見え、人はバラ色の人類史を夢見たけど、それからおよそ400余年、21世紀現在の我々の世界が、いよいよ混迷にはまりこんでいることは誰の目にも明らかだ。かつてのように人は理性というものを固く信じることができなくなっている。

 こうしたなかで絶望に陥ると、人は容易く終末観念を抱くだろう。すなわち、人類が苦悩から解放されるには、もう、人類は滅ぶしかないのではないか?と。

 

 こうした究極のネガティブ思考は、ある意味で正しいかもしれないし、少子化の根本にこんな思想が横たわっていないなどと誰が言えるだろうか。

 

 私自身もよくそんな風のことを思って暗い気分にはなったけれど、最近では、喜びとか、嬉しいと、そういう幸福の感情は、そんなに価値がないものなのだろうか?と思うようになっている。反対に言えば、こうした感情をさえ消滅させてまで、苦悩とはなくした方がいいものなのだろうか?

 

と、なんとかプラスのほう、ポジティブな方に疑念を抱くようにしている(笑)

 

 そしてまた、結局あとで夏子が言うように、生まれてくるまで、その子が自分自身のことや周りのこと、人生のこと、世界のことについてどう思うかはわからないから、生まれてくる子が不幸か幸せか、生まれてくる前に勝手に決めつけることはできないのだと思うし、そもそもそんな権利は誰も持っていない。

 

 以上、前半部分だけ引用して書き連ねたが、終盤のほうでは緑子は21歳になっているから、彼女がどう変わっていくのかを考えてみれるのもこの本の魅力なのだと思う。

 

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イギリスが誇る現代の「画家の中の画家」 ピーター・ドイグ

peterdoig-2020.jp

 

6月から再開しているのですが、コロナ感染が連日200人越えしておりますので、10月の会期ギリギリまで待ってみようと思います・・・・

 

だけどやっぱり我慢できない!

ということなので、公式サイトから1枚拝借しちゃおうかと思います(笑)

お許しください!

 

https://attach.yahoomail.jp/ws/download/mailboxes/@.id==VjJ-kEk3YjkRyFraeSP7GeylQKH2ru8jEM0PiaIrg1aGJWSYVXBWXmB21f_iz-P3GoOFGH4nkLovJSeSm65J69qU1w/messages/@.id==AMsWRmQAAF6iXwslDAlqKHleS3E/content/parts/@.id==2.2/raw?appid=YahooMailNeo&ymreqid=27e4b830-c450-11ea-c000-84f257c881f8&f=6100&token=iIAGHEdJ-gRZB-BckL7Uq3AwXlB85j1S-qIh1syMa_dPifJ7W0CJNm5bx47nYeVWyWKM18XjDd0L4JX_bHe1RjhIP_1VL-rHMzddMa5QKLA

 《ブロッタ―》1993年、油彩・キャンバス、249×199㎝、リバプール国立美術館、ウォーカー・アート・ギャラリー蔵

 

ん〜〜〜しびれる!笑

 

上半分はすごくリアリティに溢れているというか、すごく現実的、日常的な景色と思います。どこか既視感のある雪景色なのですが、男の人の姿と、氷の張った湖水でしょうか、なんだか幻想的、非日常に思います。

 

全体の色調が統一されていてバランスがいいのか、積もった雪からはみ出る草の、休日とはいえ、ちょっとは整えてくれよってツッコミたくなる無精髭のような感じ、ともするとカメラで撮っていたら本当にセンスのない写真になっていたかもしれないのに、この絵の上では、むしろ不可欠な美として立派に機能しているのだから摩訶不思議です。

 

 

展示会行きたくなった方はクリック!(笑)

 

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【新刊】ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』:その2 金権政治のUSA

 

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 中間の消滅により、FTE部門と低賃金部門との間に乗り越え困難な分断が生じたとすれば、本来、単純な多数決で意思が決定される純粋な民主主義の下では、圧倒多数の低賃金部門が政治的に力を持つことになるはずで、もってこの格差は是正されるものなのではないか、という素朴な疑問がある。
 そしてこの理屈を通すなら、ドナルド・トランプという現象はその最たる帰結、ないし是正に向けた一歩目とも言えない。

 

 しかし中位投票者定理に基づく予測によれば、ベル型曲線となるこの正規分布中央に位置するのは低賃金部門の人たちで、「はるか右側にいると考えられたトランプは、ホワイトハウスにはたどり着けないだろう」と考えられていたのだった。85p

 

 ということは、フィナンシャルタイムズ等彼らの見解に基づけば、トランプ大統領の誕生は、低賃金部門の格差是正の目論見によることではないことになる。すると冒頭のような理屈や、あるいは有識者たちがこぞっていうところのポピュリズム台頭とは異なる現象で、「経済格差→大衆の貧困化→大衆の結束→ポピュリズムの台頭→トランプ大統領」という因果の流れは、正確に現実に基づいている訳でないことになる。

 

 そこでピーターは、『政治の投資理論』を用いて別のアプローチを試みる。一体なにが投票の効果を決定するのか?

「投票者は通常、あらゆる争点について、入手費用のかかる情報を要する。この情報を入手するための時間や労力がないと、広告や支持政党頼ることになる。」100p
「投票者が頼りにするのは、自らの選考の組み合わせを魅力的に見せるために投資する豊かで強力な存在から受け取る信号である。」100-101p

「…(中略)。この図は政治資金の拠出が政党の得票のもっとも重要な決定要因になっていることを示唆する。…(中略)。金額が多いほど、得票も多くなる」102p

 

 

 ピーターの見解が正しければ、トランプ大統領誕生の実際の因果の流れは、まずFTE部門の富裕層との利害一致から始まることになる。トランプ自身も大変な富豪であるけど、富裕層が束になればそんなレベルではない。この束を動員できるかが当選の鍵となるわけだから、トランプが彼らに迎合するかぎりは大統領でいられるわけだ。

 

ところが、FTE部門と低賃金部門の利害は相反するのだった。

 

「…低賃金労働者を助ける最低限賃金や勤労所得税控除について…1%層の人々はこれらについて一般人よりもはるかに否定的にである。同様に、すべての子供に良質な学校を保証するための政府支出に対して、それが増税を必要とする場合には、支持率がはるかに低かった。」107-8

 

だけどそうすると、ドナルド・トランプとは一体何者なのか、ますますわからなくなる。富裕層の傀儡なのか、大衆ポピュリズムの申し子なのか、あるいはそのどちらでもあるのか。将又どちらでもないのか。

 

 さしあたり私はこう考える。まず、トランプの掲げるマニフェストや経済的意図が富裕層に与するものだった。そして大量の資金を通じて、挑戦的、攻撃的、人種差別的な発言が全米にくまなく流れた。それが低賃金部門の白人の気分を良くしたが、彼らに本当に必要な情報、実はトランプが自分らの利益とは相反するという確かな情報を得るに至らず、ただただ与えられる情報に踊らされた。

 

 要するに、目下の二重経済の状態では、富裕層といえども低賃金部門の支持を得なければ、少数派の彼らは政治的に優位には立てないのだが、支持を得るには自らの利益を手放して妥協するしかない。むろん、日頃から血眼になって節税を試みている彼らがそんなことをするはずはなく、白人至上主義という餌で釣り上げるしかないのだ。

 

 こうした状況を鑑みれば、次期選挙でトランプが落ちれば世界は良くなる、と信じられるほど単純ではないのだと思う。

 

 

 

 

 

還流

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【新刊】ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』:その1黒人と偏見

 

 

 

 偏見とは、根拠が乏しいから偏見というのである。しかし偏見の原因に根拠がないわけではない。火の立たないところに煙は立たない。偏見は確たる現実から派生するものだ。

 女性が肌を露出して歩けば彼女は街々の男たちから、「そのような」視線を浴び、「そういう風」に思われる。なぜなら現実にそういう女がいるからだ。

  うだつの上がらない惨めな男だって、髪型をビシッと決め、3ピーススーツを着て都会を颯爽と歩けば、彼は「できる男」だ。なぜならできる男は現実にそのような格好をしているからだ。

 たとえば仮に、万引きや窃盗を繰り返す人間の三人に二人が男という現実があったとしたら、我々は普通、女に対するよりも男に対したときの方が警戒心が強くなるのではないだろうか。

 実際、夜道を歩く女性は、後ろを歩いている人が女であるよりも男であったときの方が警戒心は強いはずだし、彼が何か不審な動きを見せれば、防犯ブザーを握りしめるかもしれない。

 

 アメリカにおける人種差別を対岸から眺めたなら、我々は簡単に否定的な態度をとることができる。心から黒人たちに同情を寄せ、安心してBLMを叫ぶことができる。

 しかし、「お前は犯人ではないが、犯人像にピッタリだ。」(本書77p)というある散文詩の句に代表されるように、法を犯す人間の大部分が黒人や移民によって占められているという現実がアメリカに存在するなら、夜道を歩く女性に、男を警戒するな、と言えないように、人種差別に苦しむ人々に心を痛めつつも、我々は現にその只中に身を置く白人に対して、偏見を持たず、肌の色で人を判断するな、とは言えないのである。

 

 という風に考えてみれば、いかにも私は視野が広くて知的にみえるが、どうやらアメリカの人種差別は、火のないところで煙が立っているくらいには深刻で、根深いらしい。

 

 こうした現実は、アメリカの経済をFTE部門と低賃金部門の二つに分けてみればわかりやすい。

  FTEとは、金融、技術、電子工学の頭文字をとった略称で(10P)、これの対義語のようなものとして低賃金部門が存在する。著者はこの二つを、ルーサーの二重経済に関する知見を援用し、対置する。資本主義の黎明期、都市部で工場に従事する労働者を掻き集めるためには、農村部で得られる報酬を極力低く抑え、そこに報酬を上乗せする必要があった。そうしたインセンティブにひかれて人々は都市部に移るのだが、現代アメリカもまた、そのような構造になっているのだと。

 昔は昔で、移動するにも障壁はあって、簡単なようではなかったらしいが、現代アメリカの障壁は教育にあり、よほど恵まれていないかぎり、FTE部門には移動できない。

 

 しかし低賃金部門の50%を構成するのは白人である(12-13p)。黒人の貧困は必ずしも本質的な問題ではなく、要するにこれは貧困一般が問題なのだが、どうしてかアメリカの黒人は三人に一人が刑務所を経験し、すべての黒人家庭が、収監中かその経験のある人を知っていると推計される。(49p)

 

 さしあたりこれが信頼できる情報としても、囚人の過半数は白人という(50p)。

 

 「貧しい白人は都心部に取り残され、貧しい黒人と同様な経済的社会的圧力にさらされている。・・・中略。都市部の白人の婚姻率は下落し、一人親家庭の割合は上昇した。貧しい白人の収監率は、黒人の収監率とともに上昇した。そして彼ら白人たちの間の信頼という社会資本の劣化は、黒人同様著しかった。」51p

 

 にもかかわらず、質問ボックス禁止運動により、試験的に行われたニューヨークでは、雇用者は個人情報の入手が妨げられたことで、黒人は元重罪犯である確率が高いとして拒否したという。(51p)

 

 してみると、本来、低賃金部門の白人と黒人とで、どっちが危険か?という偏見は、それ自体からは生じようがないはずだ。もし犯罪者の烙印を押すのであれば、白人であれ、黒人であれ、彼が低賃金部門に属するということだけで本来は十分であるはずなのに、そうはならず、この部門に属する白人は烙印から守られているのだ

 

 一体この違いはどこから来るのであろうか。

 

 著者は社会資本の崩壊の形に違いがあるという。低賃金部門における「黒人コミュニティでは、警察からの継続的な圧力が社会資本の獲得にとって常に脅威であるが、白人コミュニティでは、自分たちが忘れ去られているという感覚が自滅的行動をもたらし、飲酒や薬物による死亡率を上昇させ、教育水準の低い白人男性の死亡率の上昇を招いた。」(52-53p)

 

 要するにこの部門に属する白人はとにかく目立たない。警察沙汰は報道されることも多いだろうから、人の目に触れやすい。しかし一方で白人たちは人知れずこの世を去る。

 

 彼らが目立たないのか、黒人が目立ちすぎるのかはともかく、たとえ多くの白人が収監されていても、囚人といえば黒人であり、悪いことをするやつといえば黒人であるという観念は根強く残ってしまうものなのかもしれない。

 

 ある意味でこれは、低賃金部門内における、差別化の問題とも言えるのではないかとも思う。なんとか生き延びているが、目立たない彼らの、沈黙の、最後の自己防衛。朽ちてゆく社会資本をぎりぎりのところで彼らはつないでいる。

 FTE部門から見て、「低賃金部門は危険だ」と一概に烙印を押され、信用を早々と失うことを防ぐには、「黒人ほどではない」と線引きする必要があり、そういう意識が深層にあると解釈してみても、まったく理由のないことでは無さそうだ。

 

 

還流

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ゴリ押しと宣伝

 趣味が多様化した時代にあって、宣伝とゴリ押しの境は非常にシビアなものになっている。我々は自分の好みでないものを無理に勧められることを迷惑に思うし、嫌悪すら抱くことがある。もとより我々は、星が一つも付いていないものを買おうとは思わないし、誰も勧めない商品を買おうとは思わない。よほどの物好きでないかぎり、汗水垂らして稼いだ自分のお金をそんなどこの馬の骨とも知れない商品と交換する訳はないのだが、星が付いていればいい訳でもないし、誰かが勧めてるからいい訳でもない。要するにどれだけ星が付いていようと、そもそも自分の好みに合致しないなら、我々はバッサリそれを切り捨てる。

 

 ネットを開けば自分の好みに従った広告がアルゴリズムに従って表示され、我々はすっかり自分の好みでないものの宣伝に対する耐性を失っている。ある意味でそれは不寛容な時代精神の顕れでもあるけど、思い当たるのは、いわゆる「囚われの聴衆」事件といわれる最高裁判例だ。
 憲法の基本書にはよく記載されているこの判例により、列車のなかに拘束される乗客が、商業宣伝放送を強制的に耳にすることになるとしても、不法行為には該当しないということになった訳ども、あくまでも個別具体的な判断であり、本事案の権利侵害と主張されている行為が、受忍すべき範囲を超えている訳ではないということだから、たとえばそれが大音量でしかも音割れを起こして劣悪な雑音でしかなったなら、結論は変わっていたかもしれない。
 この聞きたくないことを聞かない自由というのは絶対不可侵の権利という訳でなく、場所や状況によっては守れられることもあるし、他の利益が上回ることもある、という訳だが、時がたつこと30年、どうやら聞かない自由、見ない自由が個々人に対して持つ重みはそう軽々しいものではなくなっているようだ。

 

 見たくも聞きたくもない宣伝が目や耳に入ればそれはゴリ押しであるし、自分の好みに従っているなら、それは正当な宣伝だ。こうした精神構造がどこから来るかと言えば、自分の帝国が崩されてしまう、という危機感、ないし、崩された、という憤りからくるものだが、要するにこの自由はもはや、人間の自我の周縁にあるものではなくなって、城の一部たる砦そのものになったのだ。
 しかし経済活動が展開される公共の空間では、経済活動は当然許容されるべきで、なにを宣伝すべきでそうすべきでないかの自由が経済主体側にもある。にもかかわらず、この公的空間と私的空間の混同が起こってしまっているようで、自分の趣味に合わない宣伝や告知が延々と継続されているのを見ると、広範囲の対象に向けて行われているものなのに、特定個人、こと自分に向かってゴリ押しされているように感じてしまうらしい。そこにはもう、一般広範囲の広告という概念はなく、特定の狭い範囲の商品が、特定個人に限定されて広告されるという概念が固着しているのだ。

 

 

還流

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