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【日経BP】『絶望を希望に変える経済学』第4章:差別はなくなるのか、フォーク定理について

 

 

 伝統的な差別は次第に薄れてはいるものの、 上位カーストは下位カーストの経済状況の 改善を脅威と感じており、殺傷を含む暴力で対抗することがめずらしくない。たとえば二 〇一八年三月には、グジャラート州のダリットの若い農夫が馬を所有したという理由で撲殺された。馬を所有したり乗り回したりするのは上位カーストにだけ許される行為と考えられていたためである。

 

 インドのこうした現実を我々はひどく野蛮に思う。馬を所有しただけで撲殺されるなんて、とんでもないことではないか。我々から見て加害者たる彼らカースト上位は、まさに理解不能の異邦人だ。日本を含めた先進国に住む人たちにとって、彼らの感覚は異常である。
 ところが、現代経済学というのは昔に流行ったところのいわゆる構造主義的なのか、表面的には野蛮に違いないこうした行為の根底にある感覚を、我々もまた、いまなお共有しているらしい。


 我々と彼らが共有しているもの、それは要するに、相互補助システムの崩壊であり、この恐怖は、掟破りに対する激烈、過剰なまでの罰となって現れる。


 カースト上位連中の繰り返す、どんなに異常で野蛮に見える確信犯的行為も、その根底にある感覚は、たとえば芸能人の不倫に対する憎悪、リベラリストの保守派に対する憎悪(その逆もしかり)、これらへの村八分的厳しい態度の根底にある感覚と共通しているのだ。
 またあるいは、単に欲望を満たすため、確信犯的でなくとも、たとえば14歳の少女を犯した65歳の老人に対する憎悪は、それこそこの男を線路に縛り付けて、汽車に轢き殺してもらわなければ気が済まないのが我々現代人というものだろう。こうした感覚は、実を言えば、自らが蔑む未開的行為の根底にあるものと似通っている、あるいは同じと言い切ってしまっても構わないのかもしれない。

 

 そして人種差別もまた、好むと好まざるとを問わず、共同体の互助的なシステムとして維持されるという。

 

メンバーが共同体の掟に従う限りは、共同体は必要なときにメンバーにさまざまな形で 支援を提供する。だがときに共同体は暴力的な面を剝き出しにし、共同体に反抗する勇敢なメンバーに天誅を加える。

 

 ある共同体において、《差別することがみんなの利益になる》、と、それが確固たる事実として認識されるようになれば、その共同体内で人生を送ろうと決した人は誰でも、本音や趣向がどうであれ、あるいはどれだけ口々に反レイシズムを謡っても、人種というレトリック—それがどれだけレトリックにすぎないとわかっていても—に基づいて差別しなければ、自分自身が存亡の危機に陥るのである。

 

 差別や偏見と闘う最も効果的な方法は、おそらく差別そのものに直接取り組むことでは ない。ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせることだ。

 

 

 著者たちが本書で掲げる案がどれだけ有効なものなのか、まだ私には判断する能力がないけど、時間をかけて注視する価値はあるのかもしれない。

 

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