川上未映子『夏物語』:少女の苦悩
極貧生活の子供時代だった姉妹、夏子と巻子。妹の夏子は上京し、作家を目指しながら、やはり貧しい暮らしを続けていた。そんななか、9こ上の巻子と12歳になるその娘緑子が大阪からやってくるという。緑子は反抗期らしく母巻子に、うまく感情を伝えられず、あるいは取るべき態度をわからずにいて、絶交状態に陥っている。必要な時は筆談でやり取りされる。緑子は日記もよく綴っていて、第1部では、地の文、というより夏子の語りの合い間あいまにその内容が挟み込まれ、少女の赤裸々な本音や体験が公開される。
その一つに関して、ちょっと考えてみたい。
人間にはやくも絶望している緑子、いや、むしろ青年期や思春期にこそ抱きがちな絶望と虚無を、冒頭の夏子と同じ30歳の私がどう乗り切ったのか、正直あまり記憶にはないけど、緑子と同じ疑問を、ことあるごとに抱いていたのは確かだ。ただ言わせてもらうと、緑子よりはもう少し思春期の私は視野が広かったはずだ。
要するに彼女は、苦悩と不幸の部分しか見えていない。とにかく深刻なネガティブに思考が偏ってしまっていて、正直読むのは苦痛だった。
そしてどうも、心優しい(皮肉でなしに)彼女には、人類史のほとんどの期間において人は貧困と絶望にあえいでいながら、脈々と命をつないできたという現実が受け入れられないらしい。
『・・・、みんなが生まれてこんかったら、なにも問題はないように思える。誰も生まれてこなかったら、うれしいも、かなしいも、何もかもがもとからないのだもの。なかったんやもの。卵子と精子があるのはその人のせいじゃないけれど、でももう、人間は、卵子と精子、みんながもうそれを、あわせることをやめたらええと思う。』134p
こうした緑子の思いは、どんな年代であれ、どんな境遇であれ、現代に生きる人なら身近なことと思う。科学と理性の力がかつては、貧困と飢餓、戦争、その他あらゆる苦悩を解決するもののように見え、人はバラ色の人類史を夢見たけど、それからおよそ400余年、21世紀現在の我々の世界が、いよいよ混迷にはまりこんでいることは誰の目にも明らかだ。かつてのように人は理性というものを固く信じることができなくなっている。
こうしたなかで絶望に陥ると、人は容易く終末観念を抱くだろう。すなわち、人類が苦悩から解放されるには、もう、人類は滅ぶしかないのではないか?と。
こうした究極のネガティブ思考は、ある意味で正しいかもしれないし、少子化の根本にこんな思想が横たわっていないなどと誰が言えるだろうか。
私自身もよくそんな風のことを思って暗い気分にはなったけれど、最近では、喜びとか、嬉しいと、そういう幸福の感情は、そんなに価値がないものなのだろうか?と思うようになっている。反対に言えば、こうした感情をさえ消滅させてまで、苦悩とはなくした方がいいものなのだろうか?
と、なんとかプラスのほう、ポジティブな方に疑念を抱くようにしている(笑)
そしてまた、結局あとで夏子が言うように、生まれてくるまで、その子が自分自身のことや周りのこと、人生のこと、世界のことについてどう思うかはわからないから、生まれてくる子が不幸か幸せか、生まれてくる前に勝手に決めつけることはできないのだと思うし、そもそもそんな権利は誰も持っていない。
以上、前半部分だけ引用して書き連ねたが、終盤のほうでは緑子は21歳になっているから、彼女がどう変わっていくのかを考えてみれるのもこの本の魅力なのだと思う。
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