serand park

人間について真面目に考えてみるブログです。

ゴリ押しと宣伝

 趣味が多様化した時代にあって、宣伝とゴリ押しの境は非常にシビアなものになっている。我々は自分の好みでないものを無理に勧められることを迷惑に思うし、嫌悪すら抱くことがある。もとより我々は、星が一つも付いていないものを買おうとは思わないし、誰も勧めない商品を買おうとは思わない。よほどの物好きでないかぎり、汗水垂らして稼いだ自分のお金をそんなどこの馬の骨とも知れない商品と交換する訳はないのだが、星が付いていればいい訳でもないし、誰かが勧めてるからいい訳でもない。要するにどれだけ星が付いていようと、そもそも自分の好みに合致しないなら、我々はバッサリそれを切り捨てる。

 

 ネットを開けば自分の好みに従った広告がアルゴリズムに従って表示され、我々はすっかり自分の好みでないものの宣伝に対する耐性を失っている。ある意味でそれは不寛容な時代精神の顕れでもあるけど、思い当たるのは、いわゆる「囚われの聴衆」事件といわれる最高裁判例だ。
 憲法の基本書にはよく記載されているこの判例により、列車のなかに拘束される乗客が、商業宣伝放送を強制的に耳にすることになるとしても、不法行為には該当しないということになった訳ども、あくまでも個別具体的な判断であり、本事案の権利侵害と主張されている行為が、受忍すべき範囲を超えている訳ではないということだから、たとえばそれが大音量でしかも音割れを起こして劣悪な雑音でしかなったなら、結論は変わっていたかもしれない。
 この聞きたくないことを聞かない自由というのは絶対不可侵の権利という訳でなく、場所や状況によっては守れられることもあるし、他の利益が上回ることもある、という訳だが、時がたつこと30年、どうやら聞かない自由、見ない自由が個々人に対して持つ重みはそう軽々しいものではなくなっているようだ。

 

 見たくも聞きたくもない宣伝が目や耳に入ればそれはゴリ押しであるし、自分の好みに従っているなら、それは正当な宣伝だ。こうした精神構造がどこから来るかと言えば、自分の帝国が崩されてしまう、という危機感、ないし、崩された、という憤りからくるものだが、要するにこの自由はもはや、人間の自我の周縁にあるものではなくなって、城の一部たる砦そのものになったのだ。
 しかし経済活動が展開される公共の空間では、経済活動は当然許容されるべきで、なにを宣伝すべきでそうすべきでないかの自由が経済主体側にもある。にもかかわらず、この公的空間と私的空間の混同が起こってしまっているようで、自分の趣味に合わない宣伝や告知が延々と継続されているのを見ると、広範囲の対象に向けて行われているものなのに、特定個人、こと自分に向かってゴリ押しされているように感じてしまうらしい。そこにはもう、一般広範囲の広告という概念はなく、特定の狭い範囲の商品が、特定個人に限定されて広告されるという概念が固着しているのだ。

 

 

還流

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