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ジーン・シモンズ(女優)その1 『聖衣』1953年

 オードリーヘップバーンと同じ1929年生まれのジーンシモンズ。ヘップバーンほどの華やかさはないけれど、映画『聖衣』のヒロイン、ダイアナを演じるシモンズには、端麗とした美貌にくわえ、奥ゆかしく、ろう長けな愛嬌があり、百合の花がその弁の先をくるんと遊ばせているのに似ていた。それでいて彼女には、暴君の威圧さえ跳ね返すしなやかな芯が通っていたが、思えば百合もまた、屹立と聳える一本の柔靭な茎に支えられて、酩酊を誘う醇美に彩られていた。


 ユダの裏切りが間近に迫ったエルサレムに、一人の男が降り立った。名家に生まれ、誇り高きローマ帝に仕えたる護民官にありながら、酒と女を愛し、政治に欲を示さない男マーセラス。次期ローマ皇帝カリギュラと奴隷市で小競り合いを演じて左遷されたのだった。入城しようとする彼の傍らで、シュロの葉を掲げた民衆たちがお祭り騒ぎを始める。彼には事情がわからない。しかし奴隷市でカリギュラに競い勝ち、彼の所有することとなったギリシャ人奴隷ディミトリアスには、騒ぎの中心にいるロバに乗った男に感ずるものがあったらしく、主人がその場を去ってもなお騒ぎを見つめていた。引き連れようとする仲間の奴隷に彼は言う。「立ち止って俺を見た。何か言おうとしたんだ。“私に従え”と」
 翌朝マーセラスは、男の逮捕に踏み切ったピラトに呼び出されて赴く。皇帝のもとに伝令を命じられたが、その前に今日の処刑を任された。ピラトいわく、三人いて、そのうち一人は宗教家だ、邪魔が入るだろうから多勢で行け、幸運を、だと。こうして彼は、さしたる情報もないまま、その命令がどんな悲運をもたらすのか、あるいはそもそも、水面下の現状、実態さえ把握しないまま、歴史的大事件と邂逅するのだった。つい昨日までの平穏でのんきな放蕩暮らしは、ここで終わりを告げた。吹き荒れる雨嵐に打たれた彼は、ディミトリアスにローブを要求した。それはイエスが磔の直前まで身に着けていたローブだった。


 キリストの磔刑という今なお語り継がれる事件が、その背後、もっとも遠いところにいる男女の視点を通して描かれる。処刑の撤回を乞うディミトリアスに対してマーセラスは、「あの変わり者?」とにべもなく突き放す。そんな世俗にまみれた男が、イエスの教えに目覚めてゆく過程は緻密で、山上の源流からいつの間にか大海原へと運ばれる心情の美しいグラデーション変化が垣間見られる。改心した前と後ではすっかり態度の変わり果てている当の主人公を演じる俳優、リチャードバートンの表現力には特筆すべきものがあるが、一つだけ変わらないものがあった。


 その一つがまさにこの映画を支えている。まるで物理的なフィルムを照らす光そのもののようで、マーセラスとダイアナが互いに貫いている愛なくしてこの映画は映し出せない。要するにこの愛だけは改心の対象とならなかった。神の子を手に掛けた罪の意識から解放され、酒も女もやめてペテロに忠誠を尽くし、一年もの間ダイアナの前へ姿を現さなかったマーセラスだったが、彼女への愛は消えていなかった。それは父なるイエス・キリストへの愛と両立するのだろうか?普通の感覚で考えれば答えはYESだろうけども、そうは行かないのが宗教の難しいところであり、『聖衣』もまた、その処遇をめぐって苦慮しているのだ。


 残酷にも『聖衣』は、ダイアナとマーセラスに選択を強いる。ここには一種の責任放棄があって、筋書きを決めるべき立場にある物語そのものが、それまでは各々の登場人物をそこへ至るように導いていたのに、唐突に自由な選択肢を与えている。ある意味でそれは、強固な愛で結ばれた二人に対する、物語の慈悲であり懲罰だった。悲劇にしかなりえない二人の運命に『聖衣』は、自由な意思を介在させることで、皇帝による懲罰を天命による懲罰に取って代え、以て暴君の権力から二人を守り、なおかつその権勢を無に帰したのだった。
そしてまた、愛の仕組みとも言うべき構造を浮き彫りにしていて、二人によって灯された愛は二人によってでなければ消せず、どちらかの一方が失われれば必然、その手段も全く失われるのであり、却ってその存在はもう一方の存在の内にある自らの在処に蘇生することを示すのだった。

 

 

聖衣(字幕版)

聖衣(字幕版)

  • 発売日: 2020/05/30
  • メディア: Prime Video