serand park

人間について真面目に考えてみるブログです。

5/28付の編集手帳に思う、SNSとは何であるか

 今朝(5/28)の読売新聞の編集手帳が、ウェルズの『透明人間』に触れている。いわく、遁世から犯罪へと走る透明人間とSNSでの匿名投稿が似たようなものだと。そのうえで、匿名での誹謗中傷が、他人の家に忍び込み、落書きをして中傷を浴びせることと同じだと。

なるほど確かに他所の家の、たとえば郵便受けに、「死んでしまえ」とか、「殺す」などと書き連ねた怪文を投函すれば、それは立派な犯罪で、小学生にもわかることだ。

ということは、現代の日本列島には小学生の頭脳にも満たない大人で埋め尽くされているのだろうか、と言われたら、私は決してそうは思わない。かといって、彼らの行いに問題がなかったのか、と言われれば、制止する必要はあったろうと思う。テラスハウスをめぐって惹起された一連の論争や中傷合戦に思うこと、露呈したと思うことは、ネットというこれまで人類が経験してこなかった全く新しい事象に対する現代人の認識が、無秩序で混迷を極めていることだったと思う。たとえば林檎を前にして、これはバナナだと言ってみても意味がないのと違い、SNSを家だと規定することは恣意的だが許されていて、しかもそれが独りでに権利を持ちうる状況に我々はいるのだ。その認識を誰もが自由に、好き勝手に、独善的に解釈して規定しうる状況にいるのだ。

 

 そこで私も、流行に乗ってちょっとした規定を試みてみたい。『第九軍団のワシ』という映画がある。タイトルにある第九軍団とは、ローマ帝国に実在した軍団で、記録も残されているのだが、あるときから忽然と記録が消え、歴史の表舞台から消えた。どこでどのようにして消滅するにいたったかは不明で、全滅なのか解散なのかもわからない。映画では、ブリタニア北方の辺境の地で、遠征の途中ブリテン人の部族に滅ぼされたという設定にされていて、末代までの恥辱を受けた将軍と成人した息子の絆を軸に、壊滅に伴って奪われたローマ帝国のシンボル「ワシの黄金像」を奪い返し、もって家族の名誉を回復させんとする息子の冒険が描かれる。

 チャニング・テイタム扮する息子マーカスは、父と同じ道をたどり、辺境の前線に陣を張る第二軍団の新隊長に就き、戦果を挙げて部下の信頼を勝ち取るが、負傷して名誉除隊となる。単独で行動するしかなくなった彼であるが、療養中に医者である叔父に付き添われて、あるとき闘技場で決闘を観戦する。それは筋肉隆々とした剣闘士と、エスカという名の華奢なブリテン人奴隷の戦いで、結果は既にやる前から見えていた。剣と盾を投げ捨て、死を受け入れるエスカに対し、剣闘士は殴打を繰り返して勝負を迫る。観衆たちもまた、「戦え!」と野次を飛ばすが、一向に剣を取ろうとしないエスカにしびれを切らし、ついには「殺せ!」と。剣闘士にはその怒号が四方八方から聞こえてくる。刃の切っ先を、仰向けに倒れこむエスカの胸に食い込ませる。観衆たちは親指を下に向け「死を!死を!」と連呼し、止めを刺すよう剣闘士に要求する。そこでマーカスが取った行動は・・・・

 

 
2 / 3
 と、うっかり趣旨から外れて映画評をしてしまいそうになったが、何が言いたいかといえば、こうした決闘の場では、どれだけ時代が進もうとも、人間の奥底にある本能が刺激され、遺伝子に刻まれた太古の記憶が血を騒ぎ立て、その野獣性を呼び起こすのである。必ずしもそうした場が必要だとは思わないし、ローマ帝国の野蛮を擁護しようとも思わないが、個人的には、この獣性を味わい、娯楽として享受することには、野蛮と言う側面のみならず、人間が理性を持っているからこそできるある種の高等な趣味としての側面があるのではないかと思っている。

 

 それはさておき、もしこの娯楽が認められるものであるなら、当然そこでは誹謗中傷や罵詈雑言が認められてしかるべきだし、それらが是認されうる空間でもあるのだ。そしてこの度のテラスハウスの件で見落とすべきでないのは、この番組がある種のそうした空間を、製作サイドの意図とは別で、抽象的な形で提供していたことであり、SNSはその観客席を提供していたといえよう。

 容認できないのであれば、話は簡単なようで、そうした空間ないし娯楽を根絶するか、誹謗中傷にあたる言葉を禁じてしまえばいい訳だ。しかし、ここにこそ、どうにもならない難問が潜んでいる。というのは、もし根絶させようとするなら、あらゆるネット空間を閉鎖するしかなくなるからで、その訳といえば、SNSがどんな空間をも決闘場にさせてしまうからである。そのうえ厄介なのは、具体的な血肉を持った存在を現前させずにそうさせるので、いっそう匿名の人間を凶暴にさせてしまう。供給サイドが何を提供しようとも、SNSはたちまちにしてそこを無機質な決闘場に変えてしまい、それを弁えないまま提供したなら、過失があったといわれても仕方がないだろう。

 

おそらく、この抽象性と匿名性が問題なのであろうが、抽象性は仕方ないにしても、せめて匿名性はなくすべきではないかという意見には、傲慢を感じる。もともと匿名の世界として出来上がった場所なのに、著名人たちが後から乱入してきて卑怯だから名前を晒すよう訴えるのは、ずうずうしいにもほどがあると思うからである。してみると、この点に関しては、ある意味では異なる規範を持つ民族の文化的衝突とも言え、血みどろの争いにならないこと祈るばかりである。「生きる権利」が編集手帳にも言及されているが、この点の個人的な法解釈もここで披瀝したいところだが、後述の追伸に譲る。

 次に、ある特定の文言を事前に打ち込めないような仕組みにしたとして、これはたとえば私のように、文学、映画、芸術をネット上で論評しようとする人に甚大な弊害をもたらすもので、というのはこれらの評論をしようとするなら、暴力性のある文言を必然的に使わなければならず(前述の映画紹介でも使われている)、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』などの傑作を批評不能の作品に貶めるのである。

 

 それでは、一人ひとりが立派に意識してSNSを野蛮な道楽にしないと肝に銘じればいいという人もいるかもしれないが、有り体に言って私はこうした殊勝な心がけには少しも期待を寄せていない。人と人がぶつかり合うところでは、決闘は不可避なのであり、唯一にして賢明な回避の方法は、近寄らないことに尽きるのである。

 

さて、こうしてみると、面と向かって「死ね!」と吐き捨てても犯罪として重大な扱いを受けることは皆無に等しいのに、SNS上では、それを「お家」のような私的空間として捉え、なにか法の保護範囲にある権利が侵害されているかのように扱う論調には賛成できない。SNS上で誹謗中傷をすることと、人の家に脅迫状を送りつけることとは断じて異なる。

3 / 3
SNSをどんな風にしようともそこは他人の存在と自分の存在が真正面からぶつかり合う場所にしかなりえないのであって、SNSそのものを禁止しない限り、人はそこで剣闘士にもなりうるし、客席で口汚い野次を飛ばすことも、はたまた声援を送って罵声を跳ね返すこともできるのだ。木村花さんにとって不幸であり悲劇だったのは、マーカスのような存在が彼女に出てこなかったことであり、彼のような行動を取ろうとしなかった人々が、あとになってから口すっぱく人に道徳を説いて善人ぶるのでは、単なる自己満足に終わるだろうし、稚拙な定義に基づいて法制を敷くなら、荒波にのまれた縛りのゆるいイカダのごとく分解されて海の底に沈むだろう。

 

 

P.S

著名人にとって匿名性は表現の自由に不可欠ではないが、個人個人の私的な内面的世界、思想的世界の実りある発展には不可欠で、匿名の禁止は実質的には告白の強制であり、表現を抑圧するものであるから、生命保護を理由に匿名の表現世界を剥奪するには、かなり厳格な論証を要求すべきと思う。匿名性には人の死を惹起させる危険性が一般的にあると言えるのか、たとえばそれは自動車よりも危険なのか、などなど。車ほど命を脅かす危険がないのに、経済的産物たる車は禁止せず、人間の根本に関わる表現生活に資する匿名性が禁止されるのはおかしいのではいだろうか。

 

立法論に関する素朴な疑問なんですけれど、反道徳的で、しかも一見して違法にも思えるのに解釈では包摂しえない事象が自然発生的に生じたとき、法は後から立法して対処するしかないわけですけども、そのために事象を変容させるだけの権威が法にあるのでしょうか?法に与えられた自己実現の手段は、常識的に考えるなら、禁止と許可の二つのように思いますが、一番上の位にある法が、都合よく事象を改変させ、下位に位置する法を自らの正義に適うよう作り出し、自己実現を図ることなどできるのでしょうか?ひさしく法学に触れていないので、改めて勉強してみようと思ふしだいでした。

 

第九軍団のワシ(字幕版)

第九軍団のワシ(字幕版)

  • メディア: Prime Video